このコンテンツは獣医療従事者向けの内容です。
獣医療の現場において、手術や全身麻酔といった侵襲がある治療を行う際に、そのリスクを飼い主さまに説明して同意書をいただくことは広く一般的に行われています。しかし、飼い主さまが「手術をしない」という選択をした場合、その記録を明確な「同意書」などの形で残している動物病院はあまりありません。
しかし、手術をしない方針を飼い主さまが決定した後で、「あのとき手術の選択肢を提示しなかったから悪化した」と訴訟やトラブルに発展するケースが多くあります。
よって、「手術しないことによるリスク」を方針同意書といった形で残しておくことが、のちのトラブルを防ぐ上で非常に重要になります。
具体的な裁判事例を踏まえて解説します。
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9歳のラブラドール・レトリーバーで、飼い主さまは当該病院をかかりつけとしていた
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4年前に腫瘍が認められ、獣医師は摘出手術を勧めていたが、飼い主さまは全身麻酔のリスクを懸念し、手術を拒否して経過観察を継続(飼い主さまはゼロリスク志向であった)
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腫瘍が増大して跛行が認められ、鎮痛剤も効かなくなった段階で飼い主さまは手術を決断
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術前検査で頻脈、QTc延長、ALT(GPT)基準範囲上限以上であったが、心雑音やリンパ節腫大は認められなかった
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獣医師は、全身麻酔による死亡のリスクがあることを伝え(ただし、同意書にそのような記載はない)、手術を実施
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手術中、腫瘍の周囲組織への浸潤が認められた
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バイタルの異常や目立った出血はなく、手術終了
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手術後、縫合部から出血があったため止血
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30分後、可視粘膜蒼白が見られたため、各種検査を実施し循環不全、DICが疑われた
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治療を行うが呼吸状態悪化、心拍数低下し、死亡
全身麻酔下で浸潤性脂肪腫の全摘出手術が行われましたが、術後に呼吸状態が悪化し、残念ながら犬は死亡してしまった事案です。
その後、飼い主さまは獣医師を相手取り裁判を提起しました。
飼い主さまの主張は多岐にわたりましたが、本コラムと関連性のある話題に限定すると、飼い主さまの主張は、「➀麻酔の危険性の説明をされなかった。」「②4年前に手術をしない場合に腫瘍が大きくなってその後手術に踏み切ってもリスクが増大することを説明するべきなのにされなかった。」です。
➀については、獣医師は確かに麻酔の危険性を伝えてはいましたが、同意書には麻酔による死亡の可能性といった具体的な文言は無く、手術に伴う不可避の合併症については免責しますという内容だけでした。
このような場合、獣医師が麻酔の危険性を説明した直接的な証拠がないため、周辺の事情から説明をしていたことを立証しなければなりません。飼い主さま側の弁護士も書面に記載がないことは主張していました。
結果としては、獣医師側が尋問で飼い主さまから「前に手術が嫌だったのは麻酔の危険性が怖いから」という言質を引き出した結果、判決でも飼い主さまが長年全身麻酔の危険性を理由に手術を拒否していた経緯から、「麻酔の危険性を十分理解していた」と認定されました。
➁の4年前に手術をしないことに対する説明についても、腫瘍が存在するという状況と手術を実際に行っていないという状況から獣医師が説明をしたと認められました。
しかし、このような訴訟に発展すること自体が、動物病院にとって大きな負担となりますし、本件の飼い主さまもそうだったかもしれませんが、人間はどれだけ説明をされても不都合なことは忘れてしまいます。
今回訴訟に至ってしまった大きな理由の一つには、飼い主さまが「何もしない=現状維持」という誤解を持っていたことが大きな理由でした。
飼い主さまは、「手術=リスクが高い」「手術をしない=今の安全な状態が続く」と誤解してしまいがちです。また、そう思いたい気持ちを持っています。
しかし実際には、今手術を決めないことは単なる現状維持ではありません。
疾病は進行し、「時間の経過と共に増大するリスク」を抱えることになります。
上記の事例のように、症状が悪化しきってから手術を決断した場合、病態が進行している分だけ手術の難易度や全身麻酔のリスクはより高くなってしまいます。
よって、このような「手術しない」というような方針の場合でも、手術しないことにリスクがある場合には、方針同意書(同意書という名前ではなく「治療方針確認書」という名前でも良いです)を作成することに意味はあります。
治療方針確認書には、①飼い主さまとの不幸な行き違いを防ぐことと、②飼い主さまの満足度を上げるというメリットがあります。
➀については、治療方針確認書を使用することで、飼い主さまの深い理解と納得を得て「今手術をしないことで、将来的にどのようなリスク(病状の悪化、手遅れになる可能性など)が増大するのか」を理解していただき、書面(治療方針確認書など)に残すことで、飼い主さまの記憶の低下も防ぐことが出来ます。また、口頭ではない為、来院していない他の飼い主さまにも見ていただくことで、説明を受けたという記憶を定着させることが出来ます。逆に、飼い主さまの中で「聞いていない」というエコーチェンバーが生じることを避けることが出来ます。
そして、万が一、後になって「あの時、もっと強く手術を勧めてくれていれば」「手術をしないとここまで悪化するなんて聞いていない」と言われた際、カルテや治療方針確認書にそのやり取りを形に残しておくことで、獣医師側の主張が客観的証拠として裁判等でも認められやすくなります。
➁については、やはり多くの飼い主さまがおっしゃるのが、「人ではあんなに同意書を取るのに、なぜ動物では取らなかったりこれだけなのか」ということです。そして、前のコラムでもお伝えしましたが、医療行為のサービスとしての本質は説明にあるということを前提にすると、丁寧に説明された、同意書を渡してくれたという経験を飼い主さまにしていただくことは満足度を上げることにつながります。
また、動物の場合には人と違い、「飼い主さまが複数存在する=説明するべき対象者が多い」という特殊性がありますが、来院した飼い主さまは獣医師からどれだけ丁寧に説明されても、それを家に帰ってから他の飼い主さまに適確に伝えることは出来ません。来院した飼い主さまの背後にいる他の飼い主さまへ向けたサービスという意味でも同意書の活用をおすすめします。
動物病院で行う同意書は、何か「積極的な処置(手術など)」をするときだけに必要なものではありません。飼い主さまが「何もしない(手術をしない)」という重大な決断をした時こそ、その決断に伴うリスクを双方が共有し、記録に残す「治療方針同意書」が力を発揮します。
大切な動物たちの健康と、飼い主さまとの強固な信頼関係を守るために、ぜひ「手術をしない時の同意書」の導入を検討してみてはいかがでしょうか。当事務所で提供しているサービスに含まれています。
【2026年8月/文責:弁護士法人 フラクタル法律事務所 弁護士 田村勇人(東京都獣医師会・横浜市獣医師会・千葉県獣医師会顧問弁護士)】
