このコンテンツは獣医療従事者向けの内容です。
みなさん、こんにちは。私は現在70歳、現役の経営者です。建築設計事務所を営んで47年、不動産業に携わって36年になります。これまで、85名の従業員を抱える老人ホームや、75名体制の医療法人など、組織の舵取りも経験してきました。経済学修士と工学(社会学)修士として、一貫して中小企業経営の研究に携わっています。
しかし、順風満帆だったわけではありません。実は、かつて経営していた医療法人はコロナ禍によりすでに廃業しています。長年、第一線で走り続けてきた私でさえ、経営の荒波を乗り越えられない瞬間があったのです。この「痛み」を伴う経験こそが、今回、私がペンを執った最大の動機です。もちろんリスクヘッジはしておりましたので、キャッシュフロー的には盤石でしたが、医療法人自体は存続できませんでした。
このコラムをみているあなたは、きっと情熱に溢れた獣医師でしょう。大学を卒業して5年、現場の厳しさと喜びを知り「自分の理想の病院を作りたい」と志している29歳の先生。あるいは、開業して10年、15年が経ち、スタッフの育成や資金繰り、近隣の競合病院との差別化に頭を悩ませている40代の院長先生かもしれません。
皆さんにまずお伝えしたいのは、「優れた臨床技術」と「持続可能な経営」は、全く別のスキルセットであるということです。
かつての動物病院は、看板を掲げれば飼い主さまがやってくる時代でした。しかし、今の日本経済、そしてペット業界を取り巻く環境はどうでしょうか。
私は経済学修士として、コロナ禍における中小企業経営者の意思決定と業績について研究してきました。そこで明らかになったのは、現代は「不確実性」が極めて高い時代であるということです。少子高齢化、物価高騰、そして飼い主さまのニーズの多様化……。これらは個人の努力でコントロールできるものではありません。
私の修士論文での分析結果によれば、こうした不確実な環境下では、ビジネスチャンスが生まれる一方で、経営判断を一つ誤れば、またたく間に窮地に立たされることが分かっています。特に中小企業の経営においては、「積極的な行動」以上に、「慎重かつデータに基づいた投資判断」が高い業績に結びつくという実証データが出ています。
これからの動物病院は、単に病気を治すだけの場所ではありません。それは、飼い主さまの心の平穏を守る「サービス業」であり、ペットとの共生を支える「地域インフラ」です。
私が昨年、研究していたテーマの一つに「動物病院の多様化」があります。トリミング、ペットホテル、老犬・老猫ケア、あるいは飼い主さま同士のコミュニティ形成。病院が提供するサービスが多様化すればするほど、経営の安定性は高まりますが、同時に管理の複雑さも増していきます。
ここで必要になるのが「経営学」の視点です。
「なぜ、あの病院にはスタッフが定着するのか?」
「なぜ、あの立地で赤字が続くのか?」
「次世代への事業承継を、今からどう準備すべきか?」
これらの問いには、すべて経営学的な「答え」と「戦略」が存在します。この連載では、私が47年間の実務で培った「現場の勘」と、大学院での研究で得た「学術的なエビデンス」の両輪を用いて、皆さんが「100年続く病院」を作るためのヒントを提示していきます。
70歳の私が、今なお学び、挑戦し続けている理由。それは、経営という学問には、あなたの愛する動物たちとスタッフ、そしてあなた自身の人生を守る力があると確信しているからです。
さあ、一緒に「次世代の動物病院経営」の扉を開いていきましょう。
日本のペット市場全体を見渡すと、現在、動物病院は急激な「二極化」の波に洗われています。私が実施した全国107院の最新調査データを紐解いてみましょう。
現在、市場のボリュームゾーン(最も多い層)は「年間売上高1億円〜2億円」のラインにあります。しかし、その内訳(病院形態)を見ると、非常に興味深い構造が見えてきます。
- 「獣医師1名の個人病院」が全体の28%
- 「スタッフ総勢20名以上、または獣医師5名以上の大型病院」が全体の32%
つまり、昔ながらの地域密着型ミニマム経営か、組織化されたメガ病院か、という極端な二重構造(二極化)が起きているのです。29歳でこれから開業しようとする先生も、40代で既存の病院を発展させようとする院長も、まずはこの「真ん中が薄くなり、両極に開いていく」市場のリアルを認識せねばなりません。
ここで、多くの獣医師が陥る最大の誤解を打ち砕いておきます。それは「人口が多くて、競合が少ない良い土地(商圏)さえ確保できれば、病院は勝手に繁盛する」という立地神話です。
不動産業に36年携わり、土地建物の仲介を行ってきた私だからこそ、あえてはっきり言います。立地のみが病院の成功(売上)を決めるわけではありません。
私たちの統計データ分析において、非常に衝撃的な事実が証明されました。「商圏の人口規模」と「病院の売上規模」の間には、明確な相関関係が見られなかった(統計的に有意な関係が確認されなかった)のです。
では、何が売上規模を牽引しているのでしょうか? データから導き出されたのは、次の「3つの柱」です。
- 多角化のレベル(診療以外の付加価値サービスの充実度)
- 経営者意識スコア(院長自身のマネジメントに対する自覚と行動)
- 獣医師数(診療体制のキャパシティ)
つまり、業績の伸び悩みを「立地条件という外部環境」のせいにしている病院ほど、本質を見誤っています。売上を決定づけるのは「どこに建てるか」ではなく、院長がどのような「経営の質」を提供できているか、という病院内部の要因なのです。
「ならば、獣医師を増やして、どんどん規模を大きくしていけばいいのだな」と考えた先生、ここに大きな落とし穴があります。経済学・経営学において「規模の経済(大きくなれば効率が良くなること)」は基本ですが、動物病院経営には特有の「規模拡大のパラドックス(The Scale Paradox)」が存在します。
私たちは、Googleマップ上に寄せられた4,015件のリアルな口コミを、最新のAI感情分析技術(BERT)を用いて文脈から「ポジティブ・中立・ネガティブ」に自動判定し、数値化しました。その結果、売上規模が拡大すればするほど、口コミ評価(BERT感情スコア)がわずかに低下する傾向(相関係数 $\rho = -0.211$)が確認されたのです。
これは臨床現場にいる先生方なら感覚的に理解できるでしょう。病院が大きくなり、売上が増えるにつれて、一頭一頭、一人の飼い主さまに寄り添う「個別対応の維持」が物理的・組織的に難しくなっていくのです。
売上という数字を追うあまり、病院の命である「顧客評価・信頼」を毀損してしまう――このジレンマを解決する組織の仕組みを持たずに規模だけを追うのは、極めて危険なギャンブルです。
では、売上規模を牽引する要素の筆頭にあった「多角化のレベル」について深掘りしましょう。現在の動物病院で導入されている主なサービスは、トリミング(60件)、ペットホテル(50件)、しつけ教室・パピー教室(38件)など多岐にわたります。多くの院長は「収益(儲け)のため」ではなく、「飼い主さまニーズの多様化への対応」を最大の動機としてこれらを始めています。
しかし、ここにまた一つ、AI感情分析が暴いた「面白い罠」があります。
統計分析の結果、「トリミングやホテルなどの多角化を進めれば、自動的に顧客満足度(口コミ評価)が上がる」というのは完全な誤解であることが分かりました(直接的な相関関係は $\rho = 0.025$ とほぼゼロです)。
「えっ、多角化は売上を増やすのに、満足度には直結しないのか?」と混乱するかもしれませんね。ここに経営学の「媒介効果(メカニズム)」の神髄があります。
実は、多角化という新しいサービスを導入することは、病院組織にとって一定の「負荷(手間や管理の複雑さ)」となります。しかし、その負荷がかかることで、院内全体の『品質向上意識』が刺激・強化されるのです。スタッフのオペレーションを見直し、より高いレベルでのホスピタリティや衛生管理を仕組み化せざるを得なくなる。この「強化された体制」があって初めて、飼い主さまからの高い評価(5つ星口コミ)に繋がっているという「完全媒介」のメカニズムが存在しているのです。
つまり、多角化を単なる「手間の増えるサイドビジネス」ととらえて形だけ真似しても失敗します。多角化を「病院全体の品質(クオリティ)を引き上げるエンジン」として戦略的に活用できるかどうかが、成長と品質を両立させる唯一の経路なのです。
私のコロナ禍の中小企業研究でも、不確実な環境下では、ただ闇雲に突撃する(起業家的志向を暴走させる)よりも、第三者の意見(外部専門家)を取り入れたり、データに基づいて「慎重かつ段階的な投資判断」を行う企業の方が、結果的に高い業績(売上や雇用の増加)を残せることが実証されています。動物病院の経営も全く同じです。
データが示すとおり、重要なのは立地ではなく「経営の質」。そして、規模拡大に伴う品質低下のジレンマを、組織的な「品質向上意識の仕組み化」で乗り越えることです。
【2026年9月/文責:株式会社TAC設計室 代表取締役 渡邊 毅】



